昭和五七年一月一三日 朝の御理解
x御理解第八十八節 「昔から親が鏡を持たして嫁入りさせるのは、顔をきれいにする許ではない。心に辛い、悲しいと思う時鏡を立て、悪い顔を人にせぬようにして家をおさめよという事である」
ニ代金光様四神様の御時代に金光教としても大変な御ひれいの輝いた御時代であります。ある御大祭の時、それこそ金光の町を埋めつくす様な参拝者であったという事でございますが、ある先生が四神様に向かって「四神様、今の金光教は大変な御ひれいでございます。沢山な人が御本部、御本部とこうお参りをさせて頂き、金光の町を埋めつくすほどしの沢山のお参りでおめでとうございます。」と言うて御挨拶を申し上げた時に四神様が仰せられたそうです。「これだけ沢山の氏子が参って来たが、真の信心をしておる者が何人おろうかのう」とおっしゃったそうです。
金光の町をそれこそ埋めつくすほどの人が集まって来たけれども、その中に真の信心をしておる者が何人おろうか、と合楽でも同じ事。沢山なお参りがありますけれどもその中に、いよいよ真の信心を頂きたいと言うたり思うたりして参って来る信者氏子が、それこそどれだけおるだろうかと思います。真の信心には、いわゆる真のおかげが伴わなければなりません。真の信心だ、真の信心だと言うても真のおかげが伴わなかったら真の信心ではないと、まあ断定してよかろうと思うね。
私、この八十八節を頂く時にいつも思うですけれども、それこそ広がりに広がるですよね。あの八という字は広がりに広がる、と、八十八節。誰でもそれこそ広がりに広がる、いよいよおかげを頂きたいという思いは誰しも変わらない。皆同じである、ね。だから、そういうおかげが受けたい、受けたいで集まって来るとするなら、よし、まあおかげは受けたに致しましても、それが決して広がりに広がって行くというおかげにはなっていかないと思う、ね。おかげは受けても、いわゆる御理解百節にありますように、金光大神の道は家繁昌、子孫繁昌を教えられるのだから、その金光大神が教えて下さる事を頂かなければ、おかげの道でも末広がりの、いわゆる、めでためでたの若松様よ、枝も栄える葉も繁る、というではないか、という、そういうおかげになっていかない、ね。
八十八節というのは、そういう広がりに広がって行くおかげを頂けれる内容持った御理解だと思うです、ね。いうならば真の信心に目覚めさせて頂く。ま、ここでは嫁入りをする時に親が鏡を持たせてやる。決して家形をきれいにする事ばかりではないぞ、と。辛い苦しい時に鏡を立てて人に悪い顔を見せぬようにして家を治めよというふうに教えてありますけれども、この御教えをいよいよ八十八節というですかね、いよいよ広がりに広がっていくおかげを頂く為の、まあ、頂き方というならばね、ただ金光教の信心は、おかげを頂く為だけの信心ではないぞ、と。
いろんな場合、いろんな問題、いろんな難儀を感ずる時に、ね、ただ、「どうぞお願いします」と言うだけではなくて、ただ顔をきれいにするばかりではなくて、鏡を立てて、とこうおっしゃるように、ね、教えの鏡を立ててね、はっきり成程、自分の心が教えに写し出される時に、ね、いよいよ真の信心をめざさなければならない。いわゆる改まらなければできない。研かなければできないところを感じるのであります、ね。成程おかげを頂く元はここにあった。おかげを頂けない元は、又ここにあったという事がわかるのです、ね。ですから今日は、そういうふうに頂いてもらいたい、ね。鏡を立てて、ね、顔をきれいにするばかりではない、と。お道の信心をさせて頂いて、ね、おかげを頂く。おかげおかげで終始しては、いわゆる真のおかげにつながらない。いわゆるお徳が受けられない。
私は金光様の御信心、いや教祖様の御教えの全てが、ね、もう、いわゆる、めでためでたの若松様よ、枝も栄える葉も繁る、と言うそういう繁昌の頂けれる元を教えてくださるんだと、金光大神はそういう道を教えるのじゃ、とこうおっしゃる。
という事はおかげの道ではなくて、お徳を頂く道を教えて下さる。そのお徳を頂けるその道を行じていくこそ、私は真の信心だと思うですね。おかげを頂く道ではなくてね。いわゆるお徳を頂く道を教えて下さる。それがその都度都度に教えの鏡を前に立てないとわからんのです。そんなら、そのお徳を頂くという事の教えというものが、ね、そりゃもう私共も思うておった、とてもお徳を受けるなんて、御神徳をうけるなんて普通ではとてもできる事ではないだろう。初代、いわゆる先覚の先生方が、ね、お徳を受けられた先生方のお話を聞くと、もうそれこそ、とても普通人ではできないような修行をなさって、そして人が助かっていく、というような、とてもそういう事はでけない。
私共もだんだん信心、まあ熱心にというかね、させて頂くようにならせてもろうて、皆から「大坪さん、あなた御本部行をせんならんだろう、と、いわゆる先生にならんだろう、」といわれたら、それこそ身震いする事いやじゃった。なぜかというとね、先生方、又初代の先生の修行を目の当りに見て来てますからねェ。とても私共では、そりゃあまあ一介の商人ですから、まあ、商売でおかげ頂く為には、いっちょどげな修行でもさしてもらおう。商売でひとつ、まあ大商人でもお取り立て頂いて、それこそ神様第一の忠義者でもお取り立て頂きたい、という願いは持っておりましたけれども、お道の教師になろうなどとは夢思わなかった、ね。
ところがいつの間にか、私の話を聞いて人が助かられる様になり、ね、そして、ま、今日の合楽があるわけですけれども、ね。いよいよ真の信心をわかりたい、という願いに、まあ、燃えて様々な、いうなら、もう先覚あたりがなさったという修行も真似方させてもらったけれども、私の場合はおかげにならなかった。それこそ火の行も水の行もさせてもろうた。断食修行もさせてもろうた。それでも助かる事ができなかった、ね。そして、いよいよ気づかせて頂いたのは、もう修行のしようがない。そこでね、私の上に現れてくる様々な問題、難儀、ね、その事をね、その事を修行として受けていこう、という方に気づかせて頂いた。まあ、腹を決めて、起きてくる問題を修行として受けさして頂く、という事になってきたら私の場合は、自分の心が開けてくるというかね、おかげの道が開けてくる、というか、私の話を聞いて助かる人達が、いよいよ、まあ、それこそ当時「門前に市をなす」というような様子であった。
そして、それを今から思ってみると、ね、今日の御理解でいうなら、教えの鏡を立てる、という事はね、自分の上に起きてくる様々な問題、難儀そのものが自分の姿である、とわかってきたのです。よく子供は親の鏡というふうに申します、ね。子供がでけそこなう、言う事を聞かない、ね。それは、それは自分のそのまま鏡だと言われております。
私は今日は皆さんにね、自分が持っておる様々な難儀そのものが、ね、いわゆる鏡を立ててそこに写っておる姿なのですから、初めて生きた教えをそこに見るわけですから、ね。そこで、そんならどういうあり方にならせて頂いたら良いか、という事をわからせて頂かなければならない、行じさせてもらわなければならない。
昨日は美登里会でしたから、皆さんのお話を頂きます前に、聞かしてもらいます前に、元旦祭の模様をビデオで見せてもらい、それから最後の私の御説教も聞かしてもらった。昨日は佐田恒行先生が司会を致しておりました。開口一番にこういう事を言ってる。「もう本当に只今の親先生の御説教聞かして頂いて、もう、ぼやァ-ッとなってしまった」と言う。もう、いうならば聞きほれてしまっておった。しかも、このような完璧なお話があるだろうか、と。金光教の信心というか、合楽理念というか、それをわずか一時間余りの間に、これほどに言いつくされたお話があるだろうか。もう、それを頂いておったらぼんやりしてしまうほどしであった、と言うております。
私も同感でした。自分が話しておって自分が話じゃない。もう本当に一言一言が神様の御心であり、お声であり、御言葉である、と、そんな感じで、もう何回私は、あの、眼鏡をかけて見よるから眼鏡を取って涙をふいたかわからん。感動し続けて、その御説教を頂いた、ね。
そして、どういう事かというと、もう確かに、今までお互いが真の信心を言うてき、まあ、求めても来たけれども。その、真の信心をこのように具体的に、しかも誰でもなそうと思えば、構えを作りさえすれば、誰でも出来る。これは大変な事だな、と私思うた。
金光教始まっていうなら百年、真の信心真の信心を言うてきたけれども、いうならば日々の改まり第一である。本心の玉を研くものだ、と、もうわかってるんだけれども、どうして研くか、どうして改まって行くか、いや、研きもしておる、改まりもしておるようであるけれども、又、いつの間にか元にもどっておっておかげはひとつも進まない。進展しないのは信心が堂々まわりだからだ、という事になっておる。それを、このように合楽で言われる。
いうならば、まあキャッチフレ-ズのように、ね。もう兎に角有難いだけではない、楽しいだけではない、愉快にさえなっていけれる手立てというものが、ね、合楽理念をひもとくとわかってくる。そしていつの間にか我情が取れておる、我欲が取れていっておる。本当にこの調子でいけば確かに十年も経ったら、我ながら我が心が祭れるようになるだろう、と思われるような、それも今初めに申しますようにね、おかげおかげと言うておかげを求めて来る人には、そんなに感じられない、まあ頂けない、と思うんうけれども、真の信心を求めて来る人ならば絶対だ、と私は昨日の御説教頂きながら思うた、ね。
昨日、お話頂いた一人一人の方が発表されましたが、久留米の石田先生の奥さんが、私は昨日初めて聞かして頂いたんですけど、先生の方はあらゆる宗教を、ま、勉強されたという事を聞いておりましたけども、奥さんはあのう、数十年間生長の家をなさっておられた、と言う事を昨日初めて聞きました。
そして、まあ、ようやく一年余りだけれども、それこそ合楽に、まあ御親戚が昔から金光様の御信心を頂いておる方達がいくらもあったですから、金光教にはそうして縁があっとったですけれども、金光様の御信心だけは絶対するまい、と思とったという、何故だろう。まあ、いうならば、真の信心、お徳を頂いていく、といったような信心じゃあなく、只、おかげおかげというのですから人間そのものがひとつも変わらない。
あの人達は、金光様金光様というけれども、ついていこうとは、いや、金光様の御信心だけはするまいと思うとった。そして、数十年間生長の家の勉強さして頂いたけれども、たまたま、ね、やはり親戚の吉富さんのお導きで合楽に御縁を頂いた時から、ね、いうならば、別にあれこれと頼む、願うという事もないのだけれども、その、まあ、いうなら教えの魅力というか、も、とりこになるように、まあ有り難うなってきて、ね、先生がついて来られるようになり、御子達が皆、両親の信心を、もう成程、合楽で言われる信心ならば、僕達もわかる、というような、その理解をして下さるようになり、三十年間も生長の家をさして頂いたけれども、第一主人も子供もついては来ませんでした。
ところが合楽におかげ頂くようになったらというのが、どこにそれがあるのか、というと、石田先生達の御夫婦の場合は、これの願わなんから、頼まならんから、という事はないけれども、そりゃ日々の上に、ね、様々いわゆるいろんな事があります。それを御取り次ぎを頂くけれどもね。それが、どう、右左になるという事ではない、という事。いうならば、もう本当にね、合楽の信心によって真の信心の、いうなら開眼がでけた。
その、真の信心を求めて来るのですから、成程もう信心が楽しうして、有り難うして、しかも愉快になる。ここ一年余り御夫婦で朝参りをさして、まあ続けておられるわけですけどもね。そういう私はふうにね、お道の信心というものがね、その、例えば人の真似のでけんような表行ですね、でもせねば真の信心には触れられないかというとそうでは決してなくてね、真の信心とは、神様が私共に求め給う、その求めに応える、という事が真の信心だと、それを、まあ、いうならば、ここでは天の心、地の心というふうに申しますが、天の心、地の心を持って起きてくる神様が求め給う、私に求め給う、その修行を合掌して受けていこう。
いうならば、ここで言われる、成り行きを大切に尊ばせて頂こう、それこそ土の信心でというふうに黙って受ける今日の御理解。今日の御理解からでしたですね、あの黙って治めるという御理解を頂いたのは。治める、という字はさんずいにムロと書いてある。さんずいというのは、もう自然という事。自然に起きて来るそれを、無口、黙って受け抜いていこう、という、そこから素晴らしい治まり方がでける。自分の心も治まる。なら、一切が治まっていくというおかげにつながる、というのです、ね
。真の信心というのは、何か、こう、遠い所にある、と思うておったけれども、もう、自分自身の、その足元にあるんだ、と。起きてくるその問題を、これは神様があなたに求め給う修行なのですから、その修行を頂こう、という事これが一番真である、ね。それを、なら実意を持って貫かせてもらう。そりゃもういっぺんね、あのう、元旦、こりゃ日々の事ですけれども、あの、元旦祭の時のお話を頂いてみてご覧なさい。もう本当に、ぼやァ-ッとなりますよ。本当に信心を求めておる人ならば、ね、はあ、こういう信心の進め方、あり方っていうのがあったのか、ね。真の信心、いうならば合楽理念が、ここで言われるようになって、ね、教祖の御教えが、いうならば楽しゅう有り難う行じて行けれる手立てを、私が行じて、そしておかげを頂いて、そして皆さんに聞いて頂くにですから、こんな間違いのない話はないのである、ね。
ま、今日の御理解に少しそれたよううけれども、いわゆる鏡を立てるという事、して、人に悪い顔を見せん、という事ですけれども、私はね、生きた鏡を立てよ、という意味の事を聞いて頂いたつもりです、ね。いうならば、子供がどうのこうのというのは、子供そのものがあなたの鏡だと、そして見てみると、成程自分の心の中にある事がはっきりわかってくる。、ね。それを例えば合楽理念に基づいて、改まる事にも、研く事にも行じていくと、それが楽しゅうなってくる。有り難うなってくる。
昨日は一人一人の方の発表を聞かせて頂いとって、もう思うんですけれども、もう兎に角も、神様が側に着きどうしに着いておられる様な実感で発表しとられました。神様が生き生きとして働きを、それはどこにあるかというと、結局、合楽理念に基づく生き方を生活の上に頂いておられる人ばっかりであります、ね。ですから、これは昔から、真の信心が頂きたい、わかりたいという人は、思う人はありますけれども、なら、真の信心とは、というものを具体的に説いてくれる人がなかった。
天地書附にある和賀心でも、こういう信心をすれば和賀心になれる、我情を取らな我欲を取らな、我が身は神徳の中に生かされてある事の実感をわかない。ならば、我情も取ろう、我欲も取ろうと思うてみる。けれども、なかなか取れた様で取れてない事に気が付いて、真の信心の、いうなら、追求はしておるけれども与えられるものがなかった。ところが、合楽理念を皆さんが頂いてです、なら、土の心なら土の心、天の心なら天の心、地の心なら地の心を、いうならば、ひとつ行じて行かれるうちに、いつの間にか我情が取れ我欲が取れ、ハハァ-こういう心が和賀心であろうか、という様な心になっていかれておるお話ばっかりでした。
昨日、美登里会の人のお話はもう本当に感心しました、ね。ですから信心というものがね、いうなら、過去の私共が、この金光教でも同じ事ですけれどもね、その、難しいもの、ね、とてもお徳を受けるなどという様な事は、とても至難なものとしてのイメ-ジをね、アップしなければいけません。過去の信心のというものは一辺御破算にしなきゃいけません。そして、もう純粋にいうならば、真の信心を合楽理念によって求める、という事になるとね、確かに十年も信心を続けておったら、我ながら我が心が祭れる様な、私はおかげが頂けれると思うです。ね。
八十八節と言えば、いうなら広がりに広がる、という意味に頂いていいと思うのですがね。広がりに広がるおかげを頂きたい、という願いは皆が持っておるけれどもそのおかげが頂きたいという願いからね、そういう広がりに広がる元である信心を頂きたい。いうならば真の信心を頂きたい。そしてそこには、真のおかげの実証というものをふんまえながら、しかも日々楽しゅう嬉しゅう有難く、しかも愉快にまでなれれる手立てをです、本気で身に付け、こういうと如何にも簡単な、そげん簡単にいくまいと皆が思うでしょうけども、実際行じてみてごらん、て、昨日、ここで発表なさった方達の場合なんかも、難しい事ではない、日常生活の中に、もうそれこそ有り難う、嬉しゅうなってきておられる。熊谷さんの妹さんで今日も参っておられると思います古賀さんていう方、まあだ、ここ三、四日ですか、お参りになっておられます。
ある難儀な、もう兎に角どうにもこうにもしようのない人間関係の問題、ね、それを昨日、私熊谷さんから聞かして頂いたんですけども、妹がもうそれこそ、どうにも出来ない相手の事が心から祈れるようになった、と。ハァ、おかげ頂かれたのう、もう合楽理念によるとそげな心がすうっとこうでけてくるわけですよ。今まで何年間も問題に問題がから、その、まあ、からんでしまって、もうほどき様がない様な問題が出る。その相手の事、夫婦の人の事、心からこう祈れれる様になった、とこういう。もうすでに古賀さんの助かりの糸口が見えてきた。これなら相手も助からんはずはない、と。
まあ昨日お話をした事でしたけどね、ね。合楽理念に基づく事になるとです、もう楽しゅうなってくる。人の事が祈れれるという事が、もう有り難うなってくる。しかも、そこには天地の心を心とする生き方でしょう。天の心であり地の心である。いうならば成り行きを尊ぶ、という様な事はね、土の信心という事になってくるから、ね、神様と直結するわけです。ですから天地との、いうならば交流というでしょうか、ね、いうならば天地のリズムというものが、ね、こうリズミカルに聞こえてくる。それは良い事、悪い事、痛い事、痒い事に至るまでリズムがある。ですから痛い事も痛いと感じんで済むような、難儀な事も難儀と感じんで済むような、しかも楽しゅうなってくる。今まで、例えていうなら仇の様に思うておった人の事が祈れれる。商売仇と思うておった人の事の繁昌が祈れれる、というのでこんな楽しい有難い事はない。そういうふうになろうとしてなれるものじゃないけれどもね。
本当の修行を一言でもよいから徹してやっていっておるうちに、そういう心が自ずと頂けてくる様になるのです、ね。そこに、ね、もうそれこそ願わんでもね、広がりに広がっていく道がついてくる。金光大神は、そういう繁昌の道を教えると仰せられる。それこそ道を行ずる事をまず先にしなければならない、ね。その道をです、それこそ、その気になれば誰でも行じられる様に説いて明かしてあるのが、私、合楽理念だと思うです。どうぞ皆さん、ね、八十八節、広がりに広がるおかげの頂けれる道をまずは体得する。為には、まずね、いつの場合でもどんな場合であっても、いや、それが難儀な事であればあるほどに、ね、その難儀そのものを鏡と思うて自分の心と
見合わせてまいります時にです、ね、それこそ人に悪い顔を見せるどころではない、人じゃなかった、自分が悪かった、と、まあ例えばいう様な心も起きてくる、ね。そこからおかげの糸口も生まれてくる。真の信心を日々行じさせて頂く、というと何か難しい事の様だけれども、ね。日常生活、いわゆる茶飯事の中に真の信心の材料というものはいっぱいあるのです。足元にあるのです、ね。それを本気で行じ、いよいよ黙って治める事の素晴らしい事を体験して、いよいよ広がりに広がっていく八十八節なおかげにも頂けれる信心を頂きたい。四神様が仰せられたという、それこそ金光の町を埋めつくすほどしの参拝者があるんだけれど、この中に真の信心をしておる者が何人あろうかの、と仰せられたと言うが、私は合楽のお広前にですかね、合楽に御神縁頂いて合楽理念に基づく生き方を皆さんがなさるならば、ね。だから合楽の信奉者皆が、真の信心、真の信者という事が言えれる様な信心を頂いて頂きたいと思うですね。どうぞ。